【平和教育活動】被爆三世として日本の社会問題解決に挑む―前編―

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今回の先輩大図鑑は、平和教育活動をしている山西咲和(さわ)さん。

咲和さんの名前には、「春を迎えて花が咲くように、人々の心に平和の花を咲かせる人になって欲しい」という願いが込められており、咲和さんはそれを人生の目標にしているのだそう。「そんな人になることが私の使命だと思ってる。出会ってくれた全ての人が、少しでも私と出会う前よりハッピーになってもらえるように、そんな人生を歩みたいって思ってる!」

使命を果たそうと奮闘する咲和さん。これまでの経験と現在の活動について、前編と後編に分けてたっぷりと語っていただきました!

学校教育はこれでいいのか?日本の平和教育に危機感

ーどうして平和教育の活動を始めたの?

私は長崎で生まれ育った被爆三世で、被爆者の話を知ることができる最後の世代だと言われているの。それで興味を持ち始めて、被爆者の話をどう継承していくかを考えるところから始まったよ。

あとは、「学校で私は何を勉強してきたんだろう?」という疑問があった。国数英理社ばっかり受験のために勉強して、それが今なんの役に立っているのかいまいちわからないなと思った。18歳になったら選挙権が与えられるのに、私たちは社会のことを全然学校で教えてもらえていない。このままではダメだと危機感を覚えたんだ。若者も社会に関わっていけるようにしないといけない。

戦争と現代社会の繋がり

戦時中の問題と、今ある様々な社会問題は繋がっていると思うんだ。「戦争」というと、誰がみても明らかに平和じゃない状態だし、今の生活と対岸にあるように思えるけど、現在も戦時中も、貧困や差別という問題はたくさんあった。

戦争は軍人同士の戦いのはずだけど、無関係の一般市民が原爆で被害を受けた。なんの罪もない人々が、ほぼ意図的に巻き込まれて、今もなお苦しんでいる。被爆者の方々は「関わったら菌がうつる」と非難され、仕事や結婚でも差別を受けてきたの。被爆者だということ誰にも話さずに亡くなった方や、今になってようやく人に話したという人も全然珍しくないんだ。

今でも、貧困や差別の問題は形は違えどたくさんある。若い世代にも、当時の問題が現在にもつながっているんだという気づきを通して、今の社会問題と向き合ってみてほしい。「自分たちは今どんな問題がある社会で生きているのか?」「これからどういう社会を作っていきたいのか?」ということをみんなで考えていけるような教育の場を作りたい。

でも、自分が勉強しなきゃいけないこともたくさんある。ちゃんとプログラムとして回せるように、カリキュラムを頑張って考えなきゃなあ!

平和教育活動

ーどんなプログラムを考えてるの?

生徒が主体で学んでいくスタイルにするつもりだよ。「私もまだまだ知らないことばかりだから一緒に学んで行こうよ!」というスタンスで行きたいと思ってる。私自身がまだ学生で年齢も近いから、「一方的に教えられる」という感覚を持たないでいてもらえると思うんだ。グループ学習の形で進めていきたいなと思ってるよ。

ーそのプロジェクトは、咲和ちゃんが全部ゼロから始めるの?何かの団体の取り組みとかではなく…?

うん、そう。ゼロから!死にそう〜(笑)

ーどうやって、誰に平和教育するの?

学校に直接押しかけようと思ってる!平和教育をもっと学校教育に取り入れてほしいと思ってるけど、学校の先生たちが社会問題を全て教えるとなると、かなりの負担になってしまう。だから、「外部委託という形で私に任せてもらえませんか?」ってオファーして、平和教育を進めていきたいなと思っているよ。

長崎では、毎年平和教育が行われているけど、マンネリ化してる。8月9日に学校に登校して、みんなで被爆者のお話を聞いて…。すごく大切なことだけど、生徒自身がその重要性を全くわかっていない。うまく役立てられていないのがもったいない。頭では大切だとわかっていても、「あ、また被爆者の話でしょ」で終わってしまう。それは悲しいから、楽しく主体的に学べるようにしたいんだ。

▲高校生平和大使として、20ヵ国50名の外交官・国連職員の前でスピーチを行った。

高校生平和大使の活動

ー不特定多数の人々に対して、社会的なアクションを起こすようになったきっかけは?

長崎県の高校生平和大使の活動がきっかけかな。高2から高3の夏までやったんだけど、高1のときは社会問題には一切興味なくて、学校の勉強や部活を必死で頑張ってたな。

2年生になって、ご縁があって平和大使として活動することになったの。今までは学級委員すらやったことがなかった私が、国際社会の舞台に立つなんて今までは思ってもみなかった。各国の外交官とか国連職員の方々の前でスピーチをする機会や、海外の学生たちと話す機会を通して「ああ、私社会のこと全然知らんかったなあ」って気づいた。

スイスの高校生と福島の原発のことを話したときに「自分よりスイスの高校生の方が全然知ってるじゃん!」と思って、すごく恥ずかしくなった。今、日本でもグローバル化が叫ばれているのに、このままで大丈夫なのかな…って。私が受けてきた学校教育はどこの国でも大体同じだと思っていたし、高校の役目はいい大学に進学させることなのか?って感じた。このままじゃだめだと思ったんだ。

単身タンザニアへ渡航、受験を放棄した高3の夏

行くなら、本気で学問をしたい。

マレーシアの大学に進学しようと思ったのはどうして?

高3の受験期の夏に、先生と散々バトルした挙句、2週間タンザニアに行ってきたの。ヨーロッパの高校生たちと一緒にボランティア活動したときに、彼らは3~4カ国語話せて、それが当たり前のことだったのが衝撃だった。

それに、世界のいろいろな問題を知っていて。このまま日本の大学に行って、18歳当時の自分の学力と偏差値で大学を決めて、何も知らないのに学科を決めて、ご縁があった大学に入ったとしても、果たしてそれは自分のためになるのかなって考えたときに、自信を持ってYESとは言えなかった。それに、私は周りに流されやすいから遊んじゃうんじゃないかなと思った。このまま進学しても、本気で学問をできるイメージが持てなくて、海外の大学に行きたいと思ったんだ。

ーちょっと待って、「先生とバトルしてタンザニアに行った」ってどういうこと!?

高3の夏って、受験生にとって大事な時期じゃない?でも、私が突然タンザニアに行くと言い出したから喧嘩になったの(笑) トビタテの奨学金をもらえたからどうしても行きたくてさ。「お前ちゃんと受験生て自覚あるとか!?」って怒られたな〜。バトって勝ち取れたのが2週間やった。

ーなぜ突然タンザニア!?

タンザニアの現状を自分の目で確かめたかったんだ。

9歳のときに目にしたポスターに衝撃を受けたの。「貧しい子供たちに支援を」っていう文字と、一人の女の子が写っていた。9歳のときの私は、「外国人」と言えばアメリカ人を想像していた。世界中の人たちはみんな、私が普段しているように、朝起きてご飯を食べて、学校に行って友達と遊んで、おうちに帰ったらあったかいお風呂に入って…っていう「当たり前」の生活をしていると思い込んでた。

でもそのポスターに写された少女は、肌は黒くて、痩せ細っていて、とても悲しい目をしていたの。それがとても衝撃的だった。その子が私に世界の広さを教えてくれたな。そして、その写真の撮影地がタンザニアだったことから、タンザニアに興味を持ち始めたよ。

家に帰ってもその女の子の目が頭から離れなかった。ネットでタンザニアのことを調べたりとかしてたけど、どの写真も笑顔の写真は見当たらなくて。当然だよね、笑顔の子の写真を使うよりも悲しそうな子を写した方が、悲しいけれど支援は集められるから。自分が感じた違和感をそのままにしないで、ちゃんと自分の目で確かめに行きたいと思った。そして、ようやくその機会を掴んだって感じかな。

それに、嫌やったもん、受験。18歳の段階で経営学とか言われても、全然わからん。高校で全く教えてもらってないのに。受験で突然学科を決めて、大学決まって勉強しろって言われてもできるわけないやんって勝手に思って。

ータンザニアでは何をしたの?

保育園で、英語と算数と公衆衛生の授業をしたよ。あとは、近くの小学校の壁をやすりがけして、ペンキ塗りの活動もした。

ある日、ハイキングしてる最中に「Sakura Girl’s Secindary School」っていう看板を見つけたの。日本の一般財団法人キリマンジャロの会と、現地のさくらビジョンタンザニアが共同で設立した、全寮制の女子中学校。元々知っとったけん、「え!?こんな近くにあるの!」ってびっくりして訪問した!ちょうど日本文化の授業がある日やったけん、お邪魔して日本文化の授業の時間を借りて、被爆したおばあちゃんの話をさせてもらったんだ。

▲タンザニアのSakura Girls Secondary School にて、原爆について語る

がらりと変わった価値観。目標を探して一年間の「ニート生活」

ー帰国してから、咲和ちゃんの中で何か変化はあった?

結論から言うと、受験を放棄した(笑)。

タンザニアの人々の生き方を表す「ポレポレ」とか「ハクナマタタ」っていう言葉があるんけど、ポレポレは「ゆっくりゆっくり」って意味で、ハクナマタタは「心配ないさ」って意味。その言葉通り、「みんな時間の概念ないのか?」って思うくらいゆっくり生活してた。

自分のペースで生きてる人たちをみて、「なんで自分は日本でこんな息苦しい生活をしてるんだろう?」って思った。私は小さい失敗をすごく気にするタイプで、滞在中に授業で失敗して落ち込んでたときに、「なんでこんなちっちゃいことで心配してるのさー!ハクナマタタだよ!」って声をかけてくれて。

それから、「ああ失敗してもいいんだ」って思えるようになったんだ。失敗しても、何が失敗かなんてわからないじゃん?そういう考え方に変わった。

当時、一番目の前にあった壁は受験だった。別に、高校を卒業したらすぐ大学に行けって誰が決めたわけでもないし、自分が本当にやりたいことが見つかってから、本気で学問をしに大学に行くのがいいんじゃないかなって思うようになった。何年遅れたからって、「失敗」にはならないし。じゃあ1年間ニートしようって決めた!(笑)

▲タンザニアの保育園の子どもたちと。

マレーシアの大学への進学を決意

ーその「ニート期間」に、自分のやりたいことを見つけたの?

そう!結果的に日本の大学は受験したけど、行く気はさらさらなかったから、一応、形だけ。ずーっと海外の大学を調べてて、最終的にマレーシアの大学にたどりついたんだ。進学を決意したのは今年(2020年)の秋を過ぎた頃だったな。1月入学に合わせて出願したよ。入学が確定して、来月からオンラインで授業を受けるよ。

  ー何が決め手でマレーシアの大学にしたの?

マレーシアって多民族国家だから、その多様性を肌で感じながら生活できるってすごく素敵だなって思って。自分の勉強にもなるしね。高度経済成長が見込める国だって聞いたから、ちゃんとアンテナ張って、社会の変化を見てたら面白いかなと思って!

大学自体も魅力的で、オーストラリアとかイギリスとかアメリカの大学に編入するサポートもすごく手厚いんだ。オーストラリアに本校があって、私はそのマレーシア校に入学するの。マレーシアは物価が安くて、授業料もオーストラリアの本校の4分の1の金額で行けるんだ。

高校の成績とIELTSの成績だけで入学できるんだけど、その分卒業はすごく厳しくて、大学ランクで行ったら東大と京大の間くらいだって言われてるんだ。「卒業、半年は遅れる覚悟でいてね」って言われて、やっぱりすごいびびってる!(笑)

でも、そのくらい本気で学問ができるってすごいことだと思うし、全力で打ち込みたいと思ってるよ。

パワフルで行動力溢れる咲和さん。現在の活動についても、詳しく語っていただきました!

後編に続く

コメント

  1. […] まだ前編を読まれていない方はぜひこちらからご覧ください! […]

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