【番外編】—第2部—なぜ日本人は英語が話せないのか? —日本の教育システムと日本社会の密接な関係—

番外編

今回は、昨日に引き続き番外編!

日本の英語教育はこれからどうあるべきなのでしょうか。

第1部はこちら

英語教育を変えるには…?

ありあ:「このままの教育システムでは世界において行かれちゃう」と危機感を抱いている人は相当数いると思うけど、じゃあ日本をどう変えたらいいかとなるとなかなか難しいね。

グローバル化の流れにおいていかれないように、日本人も英語をできるようにならないといけない、という経緯で英語も主要科目にしたわけだけど、受験科目になったところで、この教え方では話せるようにはならない。

 

 

文系と理系に分かれる効率の悪さ 

筆者:日本では高校で文系と理系に分かれて、理系の人でも必ず英語を勉強するじゃん。受験に必要だから。でもぶっちゃけ、私はそれ別に必要ないと思うんだよね。日本で働くなら英語は必ずしも必要じゃないし、そう思いながら英語の勉強するのって相当な苦痛だし、だったらその時間を理系の科目に割いた方が効率的だ思うんだよなあ。

 

ありあ:それは私も思ってた。受験のためにみんな英語を勉強するじゃん。受験科目から英語をなくしてもいいと思うんだよね。

 

筆者:「文系や理系の垣根を越えて自分が好きな科目をお好きなだけ勉強できるよ」っていう、リベラルアーツを取り入れている大学は日本でも最近は増えてきてるね。自由に選べるからこそ、「自分がやりたいことがはっきりしていないと、自由度が高すぎて難しい」って大学の説明会でも言われたなあ。私がリベラルアーツの大学に魅力を感じたのは、選択肢を高校卒業時点の狭い知識で狭めてしまう恐れがないから。大学でもっといろいろなことを知って、知見を広げた上で自分の専門領域に絞って勉強したかったから。今の日本の一般的な受験システムでは、選択肢が狭められてもったいない。

文系と理系に分けるのは、狭い視野の人材を育てるシステムになってると思う。好きなことを好きなだけ勉強できれば、社会に出てからももっと個性や自分だけの強みを生かせると思うんだけどなあ。

 

 

「受験科目としての英語」は不要

筆者:ありあだったら、どういうふうに英語の教え方を変えたいと思う?

 

ありあ:英語が特別扱いされる必要はないと思う。英語教師としていうのはあれだけど(笑)

むしろ特別あつかいされてるからこそみんな嫌になっちゃう。ただの「受験科目」であって、外国語として扱われてないから。外国語を習得すること自体が嫌になっちゃう英語でコミュニケーションを取らないんだもん。他の科目と同じように勉強する。そりゃあ、話せるようにはならない。

 

授業時間を増やすのではなく、もっと話す練習にその時間を使いたい。

でもそのためには「受験科目としての英語」をなくす必要があると思う。外国人と話すことを目的とするなら、英語文法の難易度を下げるべきだと思うから。最初から英語を使う目的がない人は他の科目に時間を割いた方がその人自身のためになるし、やりたい人がやればいい。日本に住むなら英語はあんまり必要ないし。選択科目にしていいと思う。

 

 

文化的価値観と教育スタイル

筆者:たしかに、目的が会話なら会話の練習をする、受験なら受験科目として難易度の高い文法を勉強する、っていうのはごく自然な流れだよね。

これは英語に限った話ではない気がする。英会話のための授業が完全に無いというわけではないから。でも、英会話の授業でいきなり英語で発言しろって言われても、ただでさえ「発言する」練習をしていないのに突然できるわけがない。日本では、先生が言ったことをただ聞いて黙ってノートを取るっていう授業スタイルじゃん?先生が言ったことに対して疑問を持ったり、議論をしたりする訓練をほとんどしてない。そこもアメリカとの大きな違いなのかなって思う。

 

ありあ:議論の訓練の前に、そもそも「自分の意見を持つ」訓練をしていないもんね。

そう考えると、日本の授業スタイルや教育方針は、日本の文化的な価値観に基づいていると思う。人前で質問や発言することを恥ずかしいと感じるのも、謙虚であることが美徳とされていることも関係してるんじゃないかな…。学校で協調性を徹底的に鍛えるのも、日本社会の特徴に基づいていると思う。

 

筆者:さっきも、日本は協調性が重視される社会だと言ってたけど、例えばどんなところでそう感じたの?

 

ありあ:アメリカには、体育祭とか文化祭とか、みんなで協力するイベントってものがない。何か協力することといえば、授業内のグループワークとかペアワーク程度だね。

 

筆者:そうなんだ!じゃあイベントは何があるの?

 

ありあ:プロムくらいかな。よくドラマに出てくるダンスパーティー。「参加したい人おいで〜」みたいな感じ。生徒会だけで運営してるから他の生徒は運営には関わらない。

 

筆者:日本の運動会のあるあるスローガンって「心を一つに!」とかで、クラスの協調性とか協力性はゴリゴリにアピールするけど、個性をいかす場面ってほぼないな!

 

ありあ:だからやっぱり、現実的なことを考えると、こういう文化的な背景もあるし、アメリカでの教え方が日本でそのまま受け入れられるとは限らない。

 

筆者:協調性も個性もどっちも大切だからなあ…。いきなりアメリカっぽい教育システムを導入するのは難しいし、別にそれが正しいことだとは思わない。日本の教育の仕方が完全に間違っているとは思わないけど、もっと個性が尊重されるような教育システムに変えていきたいな。

 

 

いかがでしたでしょうか。外国語教育は、文法だけでなく、その言語の使い方=コミュニケーションの取り方を学ぶという点で、異文化を理解するのに非常に有効な手段です。

日本の英語教育のように、外国語教育のゴールが難解な文法を理解するというところにとどまってしまうのはもったいないことです。

これからグローバル化が進み、街中でも英語だけでなくいろいろな言語を耳にする機会が増えていくと思います。そうなったとき、学校で学ぶ「外国語」が必ずしも英語である必要はないように感じます。

 今回のありあさんとの対談を通して見えてきたことは、会話のための英語教育を取り入れるには、日本の教育システムを大幅に変える必要があるということ、そして現在の教育システムは日本社会のあり方に大きな影響を受けているということです。

生徒が学校で活発に議論を交わし、常に自分自身の意見を持つことは、自分の「個性」を常に意識することにつながりますし、それはこれからの日本社会を築いていく上でとても大切になってくると思います。

 個性を押し殺して受験の重圧の下で苦しみながら勉強をしても、全然楽しくありません。科目の選択肢を増やす、意見を交換する機会を増やすなどして、個々人の強みを伸ばすような教育システムになれば、もっと個性が尊重される社会になるのではないでしょうか。

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